ホストクラブの歴史って?意外と知らない歌舞伎町の歴史【徹底解説】
ホストクラブという存在が世間に認知されたのはごく最近です。現在のホストクラブに至るまでには数々の歴史があり、恐らく、ホストクラブで働く人ですらホストクラブの歴史について知っている人は少ないでしょう。
今回は、ホストクラブの知られざる歴史について紐解いてみたいと思います。本記事を読めば、あなたはかなりの“ホスト通”になれるはず。
ホストクラブの歴史って?
ホストクラブはどのようにして今の形になったのでしょう? ここではホストクラブが辿ってきた歴史について見ていきましょう。
戦後の東京復興計画で歓楽街として「歌舞伎町」ができる
今から70年ほど前の戦後に、東京復興計画の一つとして「歌舞伎町」ができました。意外にも歌舞伎町ができたのは最近のことだったのですね。
歌舞伎町は歓楽街としてつくられ、当時から映画館やキャバレーなど飲み屋街が密集する歓楽街として現代の歌舞伎町の基礎となるものができました。
高度経済成長で女性経営者が増えてきた
戦後以前の日本では、女性が経営者としてお店を持つことは珍しく、とくに今で言う「キャバクラ」などの飲み屋を経営するのは男性が当たり前でした。
しかし、戦後の高度成長期に入ると、女性が経営者としてお店を持ことが増えてきたようです。女性が経営する飲み屋がホストクラブの原型になったそうです。
女性の娯楽が全くなかった当時、女性が女性のニーズに応えるべくして生まれたのが“男性が女性を接客する”という新しいスタイルの接客でした。
女性のための「女性専用クラブ」がホストクラブの原点
東京オリンピックが開催された1964年、高度成長期とは言え貧富の差が激しい中で、一部のセレブや生活にゆとりのある主婦をターゲットにした「女性専用クラブ」が登場しました。
地方のセレブなどからかなり評判が高かったようで、それがホストクラブの原点だと言われています。
1965年に東京駅八重洲口前に「ナイト東京」がオープン
東京にホストクラブが登場したのは今から約50年ほど前の1965年、東京駅八重洲口前にオープンした「ナイト東京」です。
ナイト東京になる以前は「京の花」というグランドキャバレーでしたが、経営難に追い込まれ、広いフロアを活かした女性専用のダンスホールとしてリニューアルされました。
フロアの一角には休憩できるソファが設置され、そこでダンサーや講師にチップを支払うことで一緒にお酒を飲んだり会話をして楽しめることができたりと、現在のホストクラブに近い形ができてきました。
「クラブ愛」によってホストクラブが完成
現在のホストクラブの形になったのは、1971年にオープンした「クラブ愛」です。
当時はホストクラブと呼べるお店が5軒しかなく、収入はお客さんからのチップ、指名料、ヘルプからのバックのみで基本給という概念は存在しなかったようです。
さらには“場代”としてお店側に毎週2千円を支払わないと“解雇される”というルールまであったようです。そんな形態を打破すべく誕生したのが「クラブ愛」です。ホストという職業が確立され現在のホストクラブへと続いてきました。
「ホストクラブ」という名称が生まれた経緯
『ホストクラブ』という名称は日本独自の和製英語であり、世界中どこを探しても日本以外にホストクラブは存在しません。
もともとはホステスやメンズが混同する男女を接客する飲食店でしたが、女性専用クラブも登場しました。
女性だけをメインとした「客を接待する男性の主人」を意味する「ホスト」社交団体を意味する「クラブ」が合わさりホストクラブという名称となったようです。
バブル時代がホストクラブの最盛期
「バブル時代」と言われる86年〜91年までがホストクラブの最盛期だったようです。
当時のホストはお客さんからフェラーリや高級マンション、さらには大金の詰まった銀行口座や金塊などをプレゼントとして頻繁にもらっていたようです。当時ほど美味しい思いを出来たホストは、ほんの一握りでしょう。
また、こういう話が「ホストは稼げる」「ホストへの贈り物は高級品」といったイメージが定着したきっかけになったのかもしれませんね。
景気が悪い中でも行きやすい「ネオホスト」
バブル崩壊後の日本は大不況に突入し、ホスト遊びをする人たちは激減しました。当時の料金形態は富裕層をターゲットにした料金設定だったため、客足は一気に途絶えてしまったようです。
そこで登場したのが今でいう「ネオホスト」です。従来のホストとは違い、私服でラフな接客スタイルに、お酒ではなくソフトドリンクを提供するという新しい形のホストたち。
料金設定も従来のホストクラブに比べるとリーズナブルだった為、人気を博した。
暴力団を一掃するため「歌舞伎町浄化作戦」が行われる
2004年、暴力団を一掃する目的やクリーンな街づくりを目的とした「歌舞伎町浄化作戦」が大々的に行われました。
当時の歌舞伎町はお世辞にも健全な街とは呼べず、見渡せば風俗の看板やホストクラブの看板がデカデカと掲げられており、そういった“いかがわしい看板”が「風紀を乱す」という理由で撤去されました。
また、強引な客引き(キャッチ)も同時に禁止され、歌舞伎町にひしめくホストクラブは大きな打撃を受けています。
最初のホストクラブはどんな感じ?
最初にできたホストクラブはどんな雰囲気のお店だったのでしょう? 当時の記録を参考に昔のホストクラブを振り返ってみましょう。
お酒を飲むよりはダンスがメイン
「ホストクラブ」の原型だった頃は、ダンスホール&飲食店として経営していたので、お酒や料理を楽しむよりもダンスを見て楽しむのが一般的だったそうです。
当時は娯楽も少なく、また洋酒を飲み慣れていない日本人にとってウィスキーやバーボンといったお酒は口に合わなかったのかもしれません。
流行のダンスを踊りたいという女性が集まっていた
ホストクラブに行く目的は「お目当てのホストに会いに行くため」が大半だと思いますが、当時はホストに会いに行くのではなく、“流行のダンスを見に行く”という目的で通う女性が多かったようです。
当時はディスコも盛んだったため、ホストクラブで最新のダンスを覚えてディスコで披露する、というのが一部の女性たちの間で流行っていたようですね。
今のようにネットやテレビが普及していなかった時代ですから、流行を知るには実際にその目で触れる以外知る術はないですからね。
保障給は無くホストは指名料とチップなどだけで生活
現在のホストクラブという形が完成されるまでは、保障給は一切なく、在籍するホストたちはお客さんからの指名料とチップのみで生計を立てていました。
しかも、ルックスが良い人ばかりに指名が集中するので、稼げる者と稼げない者との差がかなりあったようです。まあこれは今のホストクラブでも同じですが。
そんな雇用形態を変えたのが、本記事でも触れた「クラブ愛」をオープンした「愛田武」さんという人物です。
ホストクラブの原型を作った愛田武さんって?
「クラブ愛」をオープンした「愛田武」さんとは一体どんな人物なのか? 現在のホストクラブを確立させた“初代ホスト”について紹介していきます。
1967年にロイヤルに入店
愛田武さんは、1967年に「ロイヤル」というホストクラブに入店し、ホストとしてのキャリアを積んでいます。
当時は給料形態が上でもお伝えしたように指名料やチップのみだったため、この給料形態に不満を抱いた愛田武さんは「自分で新しい形のホストクラブを開きたい」と考えるようになりました。
1971年にナイト東京から退店し、クラブ愛をオープン
それから数年後、ナイト東京での勤務を最後に、自らが理想のホストクラブを作るべくしてクラブ愛をオープンさせました。
今でこそ当たり前のホストのスーツ営業、シャンパンタワーやシャンパンコールは、愛田武さんが発案者だとも言われています。
クラブ愛は別のホストグループに吸収されてしまったものの、歌舞伎町最古のホストクラブとして今もなお営業を続けています。
歌舞伎町ホストクラブ協力会初代会長に就任
歌舞伎町ホストクラブ協力会とは、歌舞伎町のホストクラブ数店舗から組織された組合のことで、愛田武さんはその初代会長に就任しています。
ホストクラブ協力会に加盟した店舗は、東京都の条例に基づいた営業を行い、また地域のゴミ拾いや清掃活動、暴力団に対する「みかじめ料“不払い”宣言」など地域と協力したボランティアやホストクラブのイメージアップ活動を行っています。
初代“ホスト界の帝王”愛田武
業界からは「初代ホスト界の帝王」とも呼ばれ、「城咲仁」さんなど超人気ホストを輩出した、ホストブームの火付け役です。
ホストを世間に認知させるために、テレビ出演や自伝を綴った本も出版しています。クラブ愛の名前を世間に広め、年商は最高で20億円以上に達したようです。
2018年9月、体調に異変をきたし心臓にペースメーカーを埋め込み、胃ろうの処置を施しましたが、その約1か月半後の10月25日3時すぎ、東京都内近郊の病院で死去。――78歳でした。
まとめ
ホストクラブが日本に登場したのは今から約50年ほど前の東京歌舞伎町です。ホストクラブの原型は、女性だけが楽しめるダンスホールだったというのは意外だったのではないでしょうか。
また、当時はホスト(ダンサー・講師)の給料はお客さんから支払われる指名料やチップだけという形態でした。そしてその形態を進化させたのが愛田武さんであり、今のホストクラブの礎を築いた初代ホストの帝王です。
愛田武さんが居なければ、もしかしたら今のホストクラブは無かったのかもしれませんね。